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あなたが来たときに私はここにいた

入選

やまなしメディア芸術アワード2022

解説動画

展示

日時:2021.07.17-9.5
イベント:塩竈市杉村惇美術館 若手アーティスト支援プログラムVoyage 大久保雅基・佐竹真紀子展「波紋のかなたに」

作品解説

本作は神道の思想と神社の姿を現代のテクノロジーによって変換し、そこから表出する思想を提示するインスタレーションである。東日本大震災から10年、そしてコロナウイルスが蔓延する2020年は意識の上で2つの天災が重なる年である。そんな状況を鎮めるための神域として制作した。

古神道では山や大岩、大木が御神体とされ、神が依り憑く場所として崇められてきた。それらは自然現象において特別な状況下でたまたま生まれたものである。コンピュータ・シミュレーションのある条件下によって起こる特別な振る舞いや模様も、全ては同条件の中で人間が特別なように見えることから、それを本作では御神体として置き換えた。各シミュレーションはパラメータによる結果が相互作用し、空間を通じて循環するようになっている。コンピュータ・シミュレーションを写したディスプレイは神社における本殿とし、人が参拝する拝殿は感染症対策のパーテーションによって表される。

論理的に作り出されたコンピュータ・シミュレーションとその相互作用を理解することによって、現実における天災も自然現象によって起こされた一つの現象であると鑑賞者に認識させる。そして天災にどのように立ち向かうか、自分との接点を自身で決定させることによって天災を鎮める。それは防災意識を持ち予め対策を取るか、被害に対する感情をコントロールするための具体的な行動である。

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2011年3月11日に起きた東日本大震災のあと、東北地方の人々は不安を抱えていた。そんな中シンガーソングライターは元気の出る歌を歌い、演奏家はクラシックや皆の知っている音楽を演奏し、多くの人々を励ましていた。一方で現代音楽の電子音響音楽を専門としていた僕は、誰の心を動かす活動もできず惨めな思いを抱えていた。さらに被災のショックで作曲のアイデアが浮かばなかった。何もできなかった後悔がずっと頭の片隅に残っていた。

それから10年が経った。世界中で新型コロナウイルスが蔓延している。まさか感染症によって外に出られなくなるなんて、SFの世界のようなことが起こるとは思っていなかった。2021年は東日本大震災から10周年という節目と、新型コロナウイルスの蔓延という、2つの災害が意識の上に重なる年である。何もできなかった10年を経て、塩竈市杉村惇美術館のVoyage企画によって、やっと震災に関する作品を発表できるようになった。

アーティストは食物を提供しないし、病気を治すこともできない。つまり直接的に誰かを生き長らえさせることはできない。何かを生産し、広告とともに売り出し経済を回すこともない。資本主義社会において役に立ちにくい職業である。しかし、作品によって誰かの考えを変えたり、疑問を提供したり、居場所を作ることができる。経済活動では埋めきれない、人生を豊かにするための場所や知恵を提供することが可能である。東日本大震災から10年経った今、改めて被災者や東北のために何かをできないだろうか。震災を風化させないよう思い出し、これから来る天災に対して防災意識を持つための場所を作ることがアーティストとしての役割になるだろう。

僕は自然現象に敬意を払い天災を鎮めるような場所が必要だと考えた。「鎮める」とは神秘的な意味に限らず、自然現象の振る舞いを理解し対処法を考えることで、さらなる被害を抑えるという意味である。東日本大震災の地震や津波も、新型コロナウイルスの蔓延も自然現象の1つである。地球の断層がずれ、それによって起こった振動が地震であり、地球の表面にある海がその振動で波紋を起こしたのが津波である。新型コロナウイルスも我々と同様に生きながらえようとしているだけである。震源地の表面に建物を建てたから地震で崩れ、海沿いに街を建てたから津波で流され、ヒトにとっては肺炎等を起こす振る舞いを行うウイルスと共生しているため、様々な自然現象は我々にとって脅威となった。我々は自然の恩恵を受けつつも自然によって脅かされる、そのサイクルの中で生きている。全ての人類にとって自然現象の振る舞いを理解することは、今後の天災に対する防災意識を持つこととなり、対処法を考える道具となるであろう。

本作は東日本大震災や新型コロナウイルス蔓延のような天災を鎮めるための神域である。インスタレーション型の作品として、展示室に神域をインストールした。配置された4つのディスプレイにはコンピュータ・シミュレーションが表示される。それらは相互作用を起こし循環が生まれるように設計されている。

コンピュータ・シミュレーションと神秘性

コンピュータ・シミュレーションは、設計された法則によって表現されている。常にその条件下でランダムのように動きつづけるが、ある特定の条件になると突然、特徴的な模様を描いたように見えることがある。シミュレーション上では計算通りの結果ではあるが、我々にとっては特別な振る舞いを起こしたかのように見えることがある。

古神道では山や大岩、大木が御神体とされ、神が依り憑く場所として崇められてきた。それらは自然現象において特別な状況下でたまたま生まれたものである。無宗教の人にとっても、それらを見れば長い年月を経た特別なものとして感じるであろうし、ランドスケープやアイコンとして選ぶことは不自然ではないだろう。

人類が神を創造した初期の説として「パターン捜索理論」がある。人類は進化によってすぐれたパターン捜索ができるようになり、因果関係を見つける機能を持つようになったと考えられている。それによって「雷や台風などの自然現象は何かによって引き起こされた」と考えるようになった。現代のように科学で仕組みが解明されない時代では、出来事の振る舞いに人間の特徴があるとすると捉えられ、それが体系化されることによって神の概念が誕生したと言われる。

御神体は自然環境の下、ある特別な条件によって誕生した。コンピュータ・シミュレーションのある条件下によって起こる特別な振る舞いも、御神体の誕生と同じ現象として捉えることができる。それも、我々があるパターンを他のものと区別し、特別なものとして認知することと捉えられる。そして、その特別なパターンを擬人化させると、神がかり的なものとして捉えることもできるだろう。

コンピュータ・シミュレーションのようなテクノロジーを用いた人為的な設計は、自然現象と相反するものだろうか?人類は自然と密接な生活から、人工的な建造物の集合する都市へと生活が移り変わり、自然とは無縁になりつつあるような気がするが、実際には自然現象の中で生きている。例えば塩竈市は毎年人の出入り・死亡・出生があり、在住者の経済活動によって市が維持されているが、それは細胞が栄養素を摂取し、内部物質を分解して吐き出すことによって生命を維持する新陳代謝の原理と同じと捉えることができる。つまり我々の生活に存在する人為的な現象を観察することにおいても、自然現象を見出すことができる。よってコンピュータ・シミュレーションのような人為的に環境が設計された上での振る舞いも、自然現象と同等の振る舞いを捉えることができる。

鹽竈神社への参照

塩竈市杉村淳美術館で展示することとなり、天災を鎮める場所を創るにあたり、塩竈市民の心の拠り所になるものが必要だと考えた。塩竈市の名称は「鹽竈神社」が在ることから名付けられた。鹽竈神社は塩竈市外からも多くの参拝者が訪れる神社である。陸奥国の時代から一之宮として特別な崇敬を集めてきた。本作での自然現象を敬う古神道と、現代神道を結びつけ、さらに鹽竈神社を参照し、境内の配置や祭神をモチーフとした神域を創作することとした。

作品内では3つのコンピュータ・シミュレーションが動作しており、それぞれのシステムは鹽竈神社に祀られる神をモチーフにしている。

正面中央にある2つのディスプレイは右が武甕槌神(たけみかづちのかみ)、左が経津主神(ふつぬしのかみ)である。武甕槌神は雷神かつ剣の神とされ、日本に地震を引き起こす大鯰を御する存在として描かれる。経津主神の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とされる。これらの神々はペアで祀られることが多く、どちらも武神とされ国の平定に関わる。二神を表すコンピュータ・シミュレーションとしてブロック崩しを採用した。このブロック崩しは一般的なものとは異なり、白と黒のボールに分かれて、相手のブロックを崩す代わりに自分の領土を増やしていく。武神とはつまり戦いの神である。戦いとは相手の領土を自分のものにすることや、優位性を持とうとすることである。その概念を抽象化し、白黒に分かれ互いのブロックを崩し領土を奪い合うブロック崩しを設計した。二神は対になって祀られることから、同じシミュレーションがシンメトリーに2画面表示されるようディスプレイを配置している。

右手にあるディスプレイでは「boids」と呼ばれるコンピュータ・シミュレーションが動作している。boidsはbird(鳥)+oid(のようなもの)の造語で、鳥の群れのシミュレーションを行っている。鳥たちが多くいる方向へ向かって飛ぶ、鳥に近づきすぎたら離れる、近くの鳥たちと飛ぶスピードや方向を合わえる、という3つのルールを定義するだけで、鳥の群れの有機的な動きを再現できる。このシミュレーションは塩土老翁神(しおつちのおじかみ)をモチーフにしている。塩土老翁神は塩竈に製塩技術を教えた神とされ、海や塩の神格化として考えられる。海には潮の流れがあり、また海に生息するイワシは鳥の群と同じルールで移動を行う。これをboidsの振る舞いとして見立てた。また塩土老翁神は海の神から転じて「産みの神」とされる。画面上には4つの赤い枠があり、そこをboidsが通ると展示室入り口に置かれたサーキュレーターが動作する仕組みになっている。

左手にあるシミュレーションでは境内末社である神明社、八幡社、住吉社、稲荷社を表している。隣に設置したカメラは向かい側にある4つの風鈴を映し出す。風鈴から吊るされた赤紙の座標を下に、セル・オートマトンが動作する。セル・オートマトンとは、ピクセル上で単純規則によって動くシミュレーションで、その振る舞いは生命現象や結晶の成長に似た振る舞いを見出すことができる。生と死の2つの状態があり、ピクセル上では白が生、黒が死とされる。死んでいるピクセルは、周囲に3つの生きているピクセルがあれば、次のステップで誕生する。生きているピクセルは、周りに2つか3つの生きているピクセルがあれば、次のステップでも生きられ、多いか少ないと死ぬ。これは生物が孤独でも過密になっても死ぬ現象と捉えることもできる。ディスプレイの下3分の1はカメラの映像が映し出され、白い壁と風鈴から吊るされた赤紙が表示される。赤紙がある座標はセル・オートマトンの「生」とされ、そこからセル・オートマトンのシステムが動作する。神社における末社は祭神にまつわる神が祀られるとされている。そのことより、セル・オートマトン上にある赤いピクセルが生存した場合、ブロック崩しのボールと、boidsの加速度が増える。

新型コロナウイルスによって生まれた風景と機能

以上がコンピュータ・シミュレーションと鹽竈神社の関係であるが、本作では新型コロナウイルスによって作られた現代の風景や機能も、神社の各要素と結びつけている。

神社の第一の入り口は鳥居である。鳥居は神域と人間が住む俗界を区画するものとされる。展示室の扉をくぐるとチャイム音が鳴る。ここは門であることを表すことで、展示室の中と外を区別する。また管理者へ誰かが部屋に入ったことを通知することにより、感染防止対策における人口密度の管理を行えるようにする。

神社入り口には普通、身を清めるための手水舎が配置される。古くは神社へ参拝する前に川で身を清める儀礼があったが、現代では簡略化され手水舎が置かれるようになった。そして、現在は新型コロナウイルスの感染防止対策により、手水舎の流水を止め、除菌用アルコールが設置されているものもある。展示室には手水舎の代わりに、自動アルコール・ディスペンサーが置かれる。現在蔓延する新型コロナウイルスをはじめとする、エンベロープ・ウイルスを除菌することにより身を清める代わりとする。

参道は、ソーシャル・ディスタンスを保つための足元のシールによって表される。ソーシャル・ディスタンスの距離はおよそ2mとされ、これは咳やくしゃみなどの飛沫の飛ぶ距離とされる。コンビニ、スーパーのレジや受付、ATMの待機列などの距離を開ける目安として床にラインを引いたり、足跡の描かれたシールが貼られる。これらはソーシャル・ディスタンスの距離の目安となるだけではなく、待機列の順路指示としての意味も付与されるようになった。順路というのはある目的地に着くまでの道を表す。今回は御神体へ参拝するための順路である参道の代わりとなる。

展示室の手前にはサーキュレーターが4つ配置されている。これは参道横にある灯籠を模している。また古神道における神が降りる瞬間に起こる風も模しており、さらに神に通る道としての参道を形作る。前述したboidsのシミュレーションでサーキュレーターがコントロールされており、これは神の移動を表している。サーキュレーターの風が届く先には風鈴が吊るされており、サーキュレータによって起こされた風が風鈴の赤紙を揺らす。風鈴は鹽竈神社の舞殿の位置に配置される。舞殿では神楽が上演されるように、風鈴が舞い音を奏でる。これらの循環は神々の交信を比喩している。また感染防止対策のための換気でもあり、海の街の象徴である潮風を表現している。

神社において神が祀られる場所は本殿であり、人々は賽銭箱が置かれる拝殿で参拝する。本殿は神がいる神聖な場所であり、人間が訪れるのは拝殿までとされる。この心理的な境界は、スーパーやコンビニ、様々な受付にも設置されるビニールのパーテーションにも見ることができる。本作では本殿、拝殿を分ける代わりに、御神体の前にパーテーションを設置している。

そして展示室内では感染防止対策のお願いをするアナウンスが再生される。このアナウンスは新型コロナウイルスによって聞かれるようになった象徴的な音である。公共施設、商業施設、商店街、それぞれが持つ固有のテーマ性を無視し、どのような環境においてもアナウンスがされるようになった。

その他のオブジェクト

その他にも灯籠の奥には狛犬が対になって配置されている。狛犬は獅子や犬に似た獣だが、想像上の生き物とされる。ここでは人工知能に犬の画像を学習させ画像を生成することによって、抽象化された犬のイメージを狛犬としている。元となる画像はStanford Dogs Datasetである。これには各犬種ごとの沢山の画像が集まっている。その中から正面を向いた1匹の犬のみが写っている画像のみをピックアップした。具体的には両目と鼻の三点が見え、何かを咥えていない、衣装を着用していない、人や他の犬が写っていないものである。それらの条件からさらに口を開けているもの、もしくは舌を出しているものと、口を閉じているものに分類した。狛犬は口を開いた「阿」、口を閉じた「吽」の対で置かれる。それに合わせて、口を開いた犬の画像と、閉じた画像を分け、それぞれのモデルを作った。

技術的にはGAN(Generative Adversarial Networks/敵対的生成ネットワーク)の発展型であるDCGAN(Deep Convolutional GAN)を使用し、より具体的なイメージが出力される。現在ではStyleGANを用いる方がよりリアルな画像を生成できるため主流とされるが、ここでは想像上の犬という概念を抽出したいためDCGANを使用した。StyleGANはMapping networkやSynthesis networkを用いて、人間が知覚する上でのある対象物に近いイメージが生成されやすくなる作為が組み込まれている。こうして生成されるのは犬のフォルムが抽出されやすくなるため「犬らしきもの」になる。しかし今回はDCGANを使用することで、純粋なニューラルネットワークの挙動によって生成されたRGBピクセルデータの、実物に似つかないブレと実物の差を「犬の概念」とした。

鹽竈神社の経津主神、武甕槌神の拝殿に向かって左手前には日時計がある。本作ではそれをファン型のデジタル時計として置き換えている。日時計は立てられた金属の棒に太陽の光が当たると石版に影を落とし、その石版に書かれた暦が時刻を表す。光の影を時刻として読み取るものだ。対してファン型のデジタル時計は、自ら光を発して時刻を表す。構造としては扇風機にLEDが取り付けられ、扇風機の回転とLEDの高速明滅によりアナログ時計を表現している。アナログ時計は本来ぜんまい仕掛けによって生み出されたデザインであり、その構造を持たないLEDによる表現であればデジタル時計にすることが素直であるが、この製品はあえてアナログ時計として時刻を表示する。ファンの回転とLEDの制御という技術を組み合わせる事によって、過去の時計モチーフを再現するという遠回りな表現をしている。これによって時刻の提示以外にも、風を送る効果を生み出している。日時計は太陽の光を反射させる部分と棒によって光を遮る部分を作ることによって時刻を表すことに対して、ファン型デジタル時計は光を生み出し、風を送ることがその機能となる。

音楽について

本作では様々な音が聞こえてくる。入り口のチャイム音、サーキュレーターの制御音、動作音及び風の音、ブロック崩しの効果音、風鈴の音、感染防止対策のアナウンス。それぞれのタイミングは全て独立したタイミングによって発音し、合奏のように同期を取っていない。全てがランダムなタイミングで音を奏で、それぞれの音響がレイヤー化されることによって生まれるサウンドスケープである。

新型コロナウイルス感染防止対策によってコンサート興行は非推奨とされた。コンサートは同じ時間に多くの人々が密封された空間に集まるから、感染率が高いとされるからである。一方、好きな時間に距離を保ちながら干渉できる展示会などは、新しい生活様式における文化芸術の鑑賞として推奨された。

従来の音楽の多くには始まりと終わりがある。その間にどのような音を並べるかが作曲であった。しかし演奏家が不要なコンピュータの計算による音楽は、ルールを設定すれば永遠に音楽を生成することができる。このことによって音楽を始まりから終わりまで聴くために、その場に集合する必要がなくなった。つまり、コンピュータが永遠と音楽を生成し続けるため、鑑賞者は好きなタイミングに来て、好きな時間鑑賞できるようになった。

感染防止対策が適用される現在は、コンサートホールで演奏される音楽よりも、展示室にいつ来ていつ帰っても良いような鑑賞方法が可能な、リアルタイムに生成される音楽が時代に適していると考えられる。

音楽は長い間、演奏家が居て成り立つものだった。演奏家が楽器を奏でることによって音が鳴らされ、音楽が形成された。これは人間による音楽だった。その後、オルゴールやレコードなど音楽を記録する媒体が誕生してからは、演奏家が居なくとも音楽を聴くことができるようになり、器械・機械による音楽が生まれた。コンピュータが登場してからは音楽情報を記録していなくとも、リアルタイムの計算によって音楽を生成することができるようになった。周囲の情報をセンサー等で読み取り、それによって音楽を生成する、環境による音楽が誕生した。

環境による音楽はセンサー楽器を用いたパフォーマンスや、インタラクティブなサウンドインスタレーションなどがある。本作は演奏されるものではないため後者のフォーマットに近い。インタラクティブな作品は通常人間とコンピュータの相互作用によって成り立つ。しかし、本作は人間が介入することなく成り立つインタラクティブ・システムを導入している。制御されたサーキュレーターによって鳴らされる風鈴、それを撮影するカメラの映像、それを受けたコンピュータ・シミュレーションの結果が他のシミュレーションにネットワークを通じて反映され、またサーキュレーターの制御へと循環する。これは鑑賞者のためではなく、装置のためのインタラクティブなシステムとして設計されている。

従来的なインタラクティブ作品は、鑑賞者のアクションに対する作品の応答が体験となるものだが、本作においてはそれがなく装置同士の相互作用を眺める視点を体験することになる。つまり人間が関与しない、装置が独立した作品として成り立っている。それぞれの装置は周りの環境に影響を受け反応を示しながら独自のルールで自立する。人間の制御を離れ、独立したその挙動は生命環境のように捉えることができる。この人間には関与できない環境の力を神秘と捉え、展示室空間を神域としている。本作における音楽は、環境による音楽からさらに一歩進み、コンピュータ・シミュレーションが環境に対応しながら自立する、生命によるものである。

謝辞

本作の制作にあたって大変お世話になった方々にお礼を申し上げます。鹽竈神社について取材を快く受けて下さった小野道教さん。作品内アナウンスを吹き込んでくださった古野真也さん。塩竈のリサーチに度重なるご協力頂いた三浦駿弥さん。ありがとうございました。